記憶と失明
記憶が無くなっていく病を患った。
今朝食べたもの、さっき置いたボールペン、スーパーで買わなければいけない食品、支払わなければならない公共料金、母の顔、恋人の名前。
病は深刻で、進行も早かった。
両親は僕を心配して大きめの病院に連れて行った。
入院したのが5月3日だから、それから2ヶ月くらい経っていたころ。
天使と悪魔があわられた。
天使は優しく僕に悲しそうだね、と囁いた。
悪魔ははきはきと僕にお前の病気を治してやる、と言った。
これでは天使と悪魔がどちらか分からない。
とにかく僕の病は治ることは本当らしい。
さっきから後ろで恋人が微笑んでいる。
僕は天使と悪魔たちと儀式をした。
僕は病を治す代償として、視力を失った。
何も見ずに済む世界は素晴らしい。
音が、鼓膜に突き刺さるときは、思わず吐血してしまうが。
夜なのか朝なのか分からない。
いま泣いている恋人は、どんな顔をしているのか分からない。
それでも僕は嬉しくて楽しくて幸福だった。
止まない雨。終わりのないトンネル。
光がない世界。
これが僕の望んでいた世界そのものだと思った。
ただ、僕は死にたかった。
どうしようもなく、自殺したかった。
布団から起き上がる気力すらなかった。
スマホの充電器を引っ張ってコンセントから抜いて、首をぐるぐる巻きにした。
しかし僕には力がなかった。最後まで首を絞められなかった。
悲しいのは、それだけだった。
たまに布団の上で死にたくなるのだ。
今は夜なのだ。
夜は怖い。暗くて怖い。
光が当たっていないところに住んでいた。
僕は、はやく自殺しないといけないと思いながら、布団から起き上がりカッターを探し始めた。
音がない、光もない、色もない、夜もない。
ただ、希死念慮がそこにいただけだった。